人間のうた

  人間のうた
        深澤義旻

「うそをつくな」と、おれはいわない。
大事なときに、うそをつかなければいいのだから。
大事なときとは、
自分を不幸にするかどうかというときだ。




「くそまじめにやれ」と、おれはいわない。
くそまじめにやって損をすることが多いからだ。
だけど、やらなければならないときは、
どんなにつらくても、苦しくても、
やりぬかなければならない。
それは、自分をだめにするかどうかというときだ。




「けんかをするな」と、おれはいわない。
つまらないことでしなければいいのだから。
つまらないけんかとは、
みにくい感情の剥きだしのことだ。
そこからは、なんにも生まれてはこないのだ。
だから、けんかは、つとめて避けるがいい。
だが、始めたら、
相手の息の根が止まるまで、
もしくは、
相手が完全に「まいった」と音を上げるまで、
やめてはならない。
なまはんか、相手に同情して、
手をゆるめたら反撃されて、こちらの負けだ。




「だれとでも仲よくしろ」と、おれはいわない。
ほんとうのなかまと、仲よくできればいいのだから。
ほんとうのなかま―とは、
手をにぎりあい、肩を叩きあいながら、
自慢話をしあえる相手のことだ。




「いつも誰にも素直でいろ」と、おれはいわない。
素直になるもならぬも、
それは相手によりけりだ。
言っていることはほんとうか。
それは、ほんとうによいことか、よくないことかを、
よくよく確かめてからにしたらいい。
たとえ、どんな相手でも、決して、
おそれず、ばかにしないでだ。
相手の目つき顔つき、ものの言いかたを、
おちついて、よく聞き、見ていれば、
たいがいピンとくるものだ。
人に対する無條件な素直さではなく、
真理に対する素直さをもつことだ。




「まちがいや失敗をするな」と、おれはいわない。
大事なことをまちがえなければいいのだから。
大事なことで失敗しなければいいのだから。
まちがいや失敗をおそれてはならない。
おれがいう大事なこととは、
二度と立ち上がれなくなるかどうかということだ。
意思と体力で支えきれなくなるかどうかというときだ。
他のまちがいや失敗は、
星の数ほどあったにしても、
少しもこわがることはない。
まちがいや失敗から正しく学んでいくかぎり、
自分を高めていけるからだ。
まちがいや失敗を一つもしない人間は、
結局、なんにもしなかったやつなのだ。
口先だけで、何もできなかったやつなのだ。




「いつも正しくあれ」と、おれはいわない。
神様にも動物にもなれるのが人間だから。
正しく美しいものに感動しながら、
悪いことをまねるのも人間だから。
喜びと悲しみを同時に受け止めることができるのも人間だから。
いつ、どんなときにも、
うんと喰って、うんとたれて、うんと眠るがいい。
獣の眠りのように眠るがいい。
そして、また、力を合わせて働こう。




「親に心配をかけるな」と、おれはいわない。
心と体(*打ち出せないけれど、原文は骨+豊を組み合わせた字)が丈夫なやつほど、
何かをしなければいられないやつなのだ。
そうであるかぎり、何か、どこかで、
親に心配をかけるにちがいないからだ。
親を喰らいつくして
思いっきり勇ましく生きてゆけ。




幸せは祈って待っているものじゃない。
戦いとっていくものだ。
自分の弱さや醜さと戦いながら、
目的と目標をしっかり決めて、
それに向かって突進していくときに得られるものだ。
それが自分を大切にすることだ。
自分を大切にすることをためらうな。
自分を大切にできないでいて、
どうして、人を大切にできようか。
自分を大切にすることが、同時に、
人を大切にすることになる生きかたを、
なんとしてでも、
見つけ出し、つくり出さねばならぬのだ。
それは、人間だけにできるのだ。
それが、人間の権利であり、義務なのだ。
そのように生きていったとき、
おれたちのまわりにも、
人間らしい人間がいることに
きっと気づいていくはずだ。
ほんとうのなかまもできるのだ。
そのことが、そうして生きていくことが、
どれほど苦しく悲しく切なくても、
自分の意志で選んだ道を、
もうひき返さないぞと覚悟して、
歩み続けていくならば、
悲しみも、苦しみも、怒りも、
人間の誇りにかえていけるのだ。




雨が降っても、
曇っていても、
見ろ、
雲の上には 太陽がある。